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2023.1.23
▼飛鳥:藤原京
・飛鳥北方、大和三山にかかるエリア
・最初の都城
2011秋の訪問
▼日本の都城の推移
・少したどってみよう。
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▼飛鳥:藤原京
・飛鳥北方、大和三山にかかるエリア
・最初の都城
2011秋の訪問
▼日本の都城の推移
・少したどってみよう。
・古代の都城の推移(宮も含む)
01 飛鳥板蓋宮
02 難波宮(第一次)
03 飛鳥岡本宮
04 近江大津宮
05 飛鳥浄御原宮
06 藤原京
07 平城京
08 聖武彷徨:恭仁京、難波宮、紫香楽宮
09 長岡京
10 平安京
【 map 】
▼藤原京の位置
・飛鳥の北方。
・大和三山にかかるエリア。
・飛鳥浄御原令と都城の必要。
・最初の都城:藤原京
・持統朝で遷都。
【 藤原京 】
▼藤原京 2011
・飛鳥の北方、大和三山にかかるエリア。
・日本で最初の都城。
・律令体制の成立に関連する。
・飛鳥浄御原令、大宝律令。
・碑文は持統天皇文武天皇藤原宮趾とある。
▼藤原京跡:香具山 2011
・藤原京跡から見た香具山
・コスモスが彩りを添える。
・左側に石柱の復元模型。
▼藤原京跡:畝傍山 2011
・藤原京跡から畝傍山
・同じ写真の白黒版
【 01 飛鳥板蓋宮 】
▼ 645以前 飛鳥板蓋宮など
(皇極天皇)
大王ごとに宮を移す
(主として飛鳥周辺)

▼飛鳥板蓋宮 2011
・飛鳥の中央部に飛鳥板蓋宮の遺構がある。
・皇極天皇の宮で 645年の乙巳の変の舞台。

▼飛鳥板蓋宮 2011
・大王(後の天皇)ごとに宮が営まれた。
【 02 難波宮:第一次 】
▼ 646 難波宮を営む
(孝徳天皇)
【 03 近江大津宮 】
▼ 667 近江大津宮に還る
(天智天皇:まだ称制)
《 対外情勢の緊迫 》
・645 乙巳の変
皇極 → 孝徳制
・646 難波宮(孝徳朝)
・改新の詔 → 集権化への志向
・655 孝徳 → 斉明(皇極重祚)
・660 百済滅亡
・661 斉明 → 天智称制
・663 白村江の戦い
・唐、新羅に大敗
・667 近江大津宮
・668 天智即位
高句麗滅亡
・670 庚午年藉
・672 壬申の乱
《 7Cの東アジア 》
・7Cの東アジア情勢は緊迫した。
・いちばん大きな背景は、中国における隋唐帝国の成立である。
・皇帝の命令一つで大軍を動員できるシステム、これが律令体制の特徴だとしたら、周辺諸国にとって、それはとても大きな圧力であっただろう。
・朝鮮の三国や日本が求める方向は、集権化への道しかないだろう。
・蘇我入鹿であろうと、中大兄皇子であろうと、最後は権力を集中して、国内の仕組みを安定させ、律令体制を導入する。
・しかし豪族の連合政権のような性格をもつ政府(朝廷)が、簡単に中央や地方の諸豪族を抑えられるはずもない。
・大きな契機となったのは
1 外圧 663 白村江の敗戦
2 国内 672 壬申の乱
である。
このような観点からすると、7C後半の天武・持統朝における律令体制への移行は、日本史上の画期であると考えられる。
▼近江大津宮 写真はJ亭さん 2021
・中大兄皇子(天智称制)は、ヤマト(飛鳥)を離れ、畿外である近江に宮を移した。対外防衛上の理由である。
・大友皇子の政府は、壬申の乱で大海人皇子の軍勢に敗北し、近江大津宮は灰燼に帰した。
・近江神宮は近江大津宮跡に鎮座する神社。
・近江神宮HP
【 04 飛鳥浄御原宮 】
▼ 672 飛鳥浄御原宮で即位
(天武天皇)
▼飛鳥浄御原宮
・壬申の乱に勝利した大海人皇子は、飛鳥に戻り即位した(天武天皇)。
・天武の宮が、飛鳥浄御原宮。
・その強大な権力を掌握した天武の下で、大王の権威は確立して中央集権化が進み、律令体制への移行が本格的に進展した。
・また朝鮮では新羅と唐の対立が顕在化し、それは日本にとっては外圧の緩和をもたらした。
・したがって、672壬申の乱が画期であり、その後の天武・持統朝で古代国家が形成されていく。その舞台が、飛鳥浄御原宮である。
《 天武・持統朝 》
・672 壬申の乱
・天武即位
・飛鳥浄御原宮
・686 天武没 大津皇子の変
・持統称制(後に即位)
・飛鳥浄御原令施行
・690 庚寅年籍
・694 藤原京
・697 持統譲位 → 文武
・701 大宝律令
・702 久しぶりの遣唐使
・703 持統没
【 05 藤原京(再掲) 】
▼ 694 藤原京に還都
(持統天皇)
ついに都城が造られる
▼藤原京 2011
・飛鳥の北方、大和三山にかかるエリア。
・日本で最初の都城。
・律令体制の成立に関連する。
・飛鳥浄御原令、大宝律令。
・碑文は持統天皇文武天皇藤原宮趾とある。
▼藤原京跡:香具山 2011
・藤原京跡から見た香具山
・コスモスが彩りを添える。
・左側に石柱の復元模型。
▼藤原京跡:畝傍山 2011
・藤原京跡から畝傍山
・同じ写真の白黒版
【 06 平城京 】
▼ 710 平城京に遷都
(元明天皇)
▼平城宮跡
・大和西大寺駅から歩く。
・あまりに広大なエリア。
・市街地なのになぜ確保されていたのだろう。
▼第一次大極殿
・8世紀もこのように見えたのだろうか。
・都に来た班田農民も、この建物には驚いたろう。
【 07 聖武彷徨 】
《 一時、平城京を離れる 》
・740 藤原広嗣の乱
・大宰府における反乱
・動揺した聖武天皇は平城京を離れる
・740 恭仁京
・741 難波宮
・743 紫香楽宮
・大仏造立の詔
・墾田永年私財法
・743 平城京に戻る
《 恭仁京 》
▼恭仁京跡 2021 J亭さん 2021
・動揺した聖武天皇は、平城京の北方、橘諸兄ゆかりの恭仁に遷都した。
・といっても建設しかけて、さらに移動した。
《 難波宮:第二次 》 写真はありません
《 紫香楽宮 》
・聖武天皇の動揺は続き、畿内を離れ、近江国(現在で言えば湖東の盆地)紫香楽に、宮をつくって移動した。
▼JR草津線〜信楽高原鉄道 2021
・J亭さんの写真。
・紫香楽宮跡へは大津からJR草津線にのり、貴生川(きぶかわ)で信楽高原鉄道に乗り換える。
▼紫香楽宮跡 J亭さん 2021
・聖武天皇は紫香楽宮で大仏を造るといった。仏の力で災厄を鎮める。
・鎮護国家の理念だ。
・高速道路建設は現代の大仏造立だ。

▼紫香楽宮跡 J亭さん 2021
・林の中に紫香楽宮趾の石碑が立つ。
【 08 平城京に戻る 】
▼ 743 平城京に還都
(聖武天皇)
・聖武譲位、孝謙即位。
・孝謙譲位、淳仁即位。
・藤原仲麻呂の変
・淳仁廃位、称徳重祚。
・道鏡の時期
・称徳没、光仁即位。
(天武系から天智系へ)
・光仁譲位。桓武即位。
ここに桓武天皇は、天武・持統直系の都である平城京から離れる可能性を探ることになる。
【 09 長岡京 】
▼ 784 長岡京に遷都
(桓武天皇)
▼長岡京跡 J亭さん 2021
・称徳天皇(孝謙重祚)の死により、天武系統が絶え、天智系の白壁王(光仁天皇)が即位した。
・光仁は、即位後に天武系との関係を切り、山部親王(桓武天皇)に譲位した。
・桓武は、新しい王朝の始祖としての自覚と、奈良の大寺院の勢力から離れるために、現在の淀川上流に新都を造営し、784年に遷都した。
・これが長岡京である。
【 10 平安京 】
▼ 794 平安京に遷都
(桓武天皇)
・長岡京の課題は多く、水害や藤原種継暗殺などにより造営事業は停滞し、さらに北方の葛野の地に新都を造営することになる。
・これが平安京である。
・ただすぐに平安京が安定するわけではなく、810 平城太上天皇の変(藤原薬子の変)を経て、嵯峨天皇(のち太上天皇)による統治が続くことによって、遷都の可能性はなくなり、平安京が確立したわけである。
・都城制は律令体制を構成するものであり、律令体制の衰退(というより変容)に伴い、平安京はかたちを変えていくことになる。
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